どうにかこれを捨て去る方法はないものか;安寧なる再起動、眠りの淵にこれを投げ捨て、暁に真なる姿を〝真っ直ぐに〟見る方法は。
ああ、そうだ;もうこれしかない。方法は、もう―
だってよう、パチェがあんなモンぶっ放してくるもんだから、しょうがないだろ……
閉所でのロイヤルフレアなどその魔術の正体を知っていれば当然、知らずとも一目見れば破局的な破壊がもたらされるだろうことは、日を見るよりも明らかだ;だがそんな事は術者自身が最も解っていることで、蔵書の一冊一冊:棚の一連一連:壁の一枚一枚:キャンドルの一本一本に至るまで、徹底的に養生が施されていた。斯くて、実際にこの惨状を招いたのは、パチュリー・ノーレッジの動線を遮ろうとして滅多矢鱈に乱投した無数のデビルダムトーチであり、挙げ句パチュリー・ノーレッジだけではなくレミリア・スカーレットや十六夜咲夜の堪忍袋の緒までも粉砕する顛末の決定打となったのは、自棄糞になって投げたマジカル産廃再利用ボムの一撃(と残留魔素汚染)であった。
あんなものただの威嚇よ、第一あんたは安地あるでしょ!
そういうメタ発言は良くないと思うぜ
十六夜咲夜まで敵に回したとあっては、殊、追いかけっことなると分は最悪である;本人の認識ではまさに次の瞬間には拘束されて人間牧場備え付けの妊娠ストールに閉じ込められていた。収監された霧雨魔理沙を取り囲むのは、紅魔館の有力者達:当事者のパチュリー・ノーレッジ:館の主レミリア・スカーレット:そしてこの一切の損害修復を担わされるだろう十六夜咲夜。三人が三人とも凍てつく刃のような視線を、この大人災の実行犯に突き刺している。
この檻……私、そういう趣味はないんだけど
意外だったか知ら、ウチって刑務所じゃないのよ;罪人を閉じ込めておく牢屋なんて無いのよね。これは仮にも人間用よ、問題ないでしょう?
そんなこと言って、エロ漫画みたいなことするつもりだろ
お望みとあれば、用意はあるけど?
マジかよ、遠慮するわ
まあまあ、遠慮しないで?魔理沙って人間としては格別の魔力容量があるのだもの、供血豚に留まらない、良質な子をいっぱい産んでもらえそうだし
待て待て待て待て待て待て待て
身動ぎだけでも厳しい窮屈な檻に手足さえ縛り付けられたまま霧雨魔理沙は、彼女を取り囲む三人を何とか制止する。何を言い出すか、と冷ややかに打ち付ける視線。
か、金ならある!
なさそう
なさそう
なさそう
冷ややかである。
金ならあるから種人扱いは……
ほう。ケイオト、何故お前が父親なのだ。ツイてるからと言って調子に乗るな、お前がママになるんだよ。金ならその後で洗い浚い頂くとしよう。
レミリア・スカーレットがちょいちょいと人差し指で宙を擽るようにすると、十六夜咲夜はしずしずとしかし待ち構えていたかのように何か黒い大きな棺のようなものを部屋に引き入れた。台車に載せられたその内側からは、恐らく人のものであろう、だが人の理性は無かろうと思わせる何某かの呻き声のような音が漏れ聞こえている。霧雨魔理沙は顔を引き攣らせた、その内側にいるものと、その先の光景が容易に想像出来たからだ。
わかった!わかったから!ちゃんと直す、壊れたところは私がちゃんと責任を持って完全に原状復帰させるから!!
いったわね?
い、イッてない!私はこんなことで負けたりしない!!
「「「負けろ!!」」」…………ってことで、図書館建屋は全壊、紅魔館本館も一部半壊って顛末さ。そこでにとり、修復手伝ってくれないか?
いつものことじゃないか。で、なんで私があなたの尻拭いをしなきゃならないんだよ?
まだ尻は無事だ。でもお前にやるかどうかはもう少し考えさせてくれ……
そうじゃないし、誰彼構わずのべつまくなしに尻子玉取ってると思うなよ
そうよ。誰でもあなたと一緒だと思わないことね
なんで咲夜が付いてきてるんだ
逃亡防止の監視。
ご苦労なことで
霧雨魔理沙がニンゲンの外れ者、魔術師の異端児であるなら、河城にとりも河童としては変わり者の方、河童の多くは妖怪の多くと同じであるし加えてその出自からニンゲンをよく思っておらず自ら係ろうとはしない;だが、彼は違っていた。
霧雨魔理沙がニンゲンであっても彼女を忌避しないそれに、この件については霧雨魔理沙から見ても彼には是非にと助力を願っておりその依頼の道程には十六夜咲夜も同行していた;本来的には紅魔館の各種修復は彼女が監督を行うからだ。
……これって何してるんだ?鰻の家でもつくってるのか?
この川、雨が降ると簡単に氾濫してニンゲン達が困ってるみたいでね、ちょっと細工して川を大人しくしようと思ってさ
河童のくせになんとも人道的なことだな:霧雨魔理沙は感心したような、感心してみせたような表情でそれを見ている。一方で明らかに作業中だというのに不躾に背中から依頼ごとを投げ付けるのは、流石の霧雨魔理沙、彼女の図々しさを物語っていた。
雨の度に頻繁に決壊する剛性の低い堤防を、高度に組み上げた木と岩とで出来た背の高い堤防に造成しているらしい。河童のノウハウを詰め込んだ治水工事に間違いはないだろう;暴れ川と厄介がられているが用水として付き合わなければならないニンゲン達と、友好的にやっている珍しい河童の姿があった。
河城にとりが作業用に使役している人形はアリス・マーガトロイドの自動人形ともまた違う趣だ;彼は全身が金属と樹脂で構成され歯車と油圧と金属関節で動く奇妙な姿の器械に指示を出し操作しながら半自動で河岸工事を行っている。器械は人の力では全く持ち上がらないだろう巨岩を操作者の時指示通り軽々と持ち上げては、あっちからこっちへと移動させていた。
すげえなあ、その器械
魔術人形には精密さでも魔法力でも敵わないけど、パワーはこの通り出るし、何より誰でも扱える。もっと量産してニンゲンに売りつけたい。ヒトの世は、もっと良くなる
ついでにお前の財布も厚くなる
そゆことー
アリス・マーガトロイドの自動人形が柔軟性や魔力容量にキャパシティを割いているのとは対称的に、河城にとりのこの人型器械は特定の用途への特化と剛性と物理的なパワーにリソースが割かれており、彼曰く「出来上がってしまえば、操作方法を知っている誰でも同じようにパワーを発揮できる」という特性があるとのことだった。河童の用いる魔術は科学と呼ばれ、魔法使い達の扱う魔法、魔術師の扱う魔術、その更に向こう側にある「才能の不要に代わり、資源の必須」「信仰の無用の代わりに、知識の必須」「超常性を欠く代わり、完全な再現性」を謳っている。
鉄製器械による護岸工事はダイナミックなものだった;岩がちで巨岩がごろごろしている妖怪の山からヒトの背丈よりも大きな岩をこんな場所まで軽々と運び、更には必要に応じてそれを一撃で砕いては目的の大きさに整えて石垣を造っていく。何がどうしてそうなったのか判りづらい魔術よりも物理的な作用と効果がひと目で分かる明快さがあり、里のニンゲン達にも魔術より幾許かは受け入れ易いらしかった。
しかし護岸工事自体は一朝一夕のこととは行かないらしい、今日明日中に終わらせるというものでもないらしく河城にとりは「今日はこの辺でいっか」とあっけらかんと仕事を投げ出しては不躾に過ぎる霧雨魔理沙(とそれに冷たい目を送っている十六夜咲夜)に向き直る;手拭いで額の汗を拭きながら、少しだけ泥を被った人懐っこい表情で、横目に聞いていた内容を繰り返して霧雨魔理沙に内容の確認を取っている。
……で、だ。まーあ、普段なら御免被るところだけど今ばかりはタイミングが良かったね、代わりに私の要求が飲めるなら、万事引き受けようじゃないか。
要求?
貧乏神に付き纏われ事あるごとに巫女としての威厳と一緒に貧しさオーラを放っては周囲の印象をバグらせている博麗霊夢とは違い、河城にとりの場合は取り立てに対してがめつい;博麗霊夢を貧乏と表現するなら河城にとりは守銭奴、その口から出てくる〝要求〟という言葉に霧雨魔理沙は思わず身構える。だが、その内容は少々意外なものであった。
丁度手持ちのストレートエッジが壊れちゃってね。ってもニンゲンの里で使うような精度の低いやつじゃないよ、1㌔先まで伸ばしても誤差がほとんど無いって代物さ。
魔術でそういうものを造ってくれって言うなら……悪いが私は魔器製造は専門外だ。
そんなの期待してないよ。どっちかって言うと壊す方が得意そうだもんね?
ひっど
なればこその、この事態である。
建築なんてやるときにはどうしても欲しいんだ。聞いたところによると、彼岸の果に凄い精度のアイビーム型ストレートエッジがあるっていうじゃないか。
そうなのか?聞いたこと無いけど……
〈直線原器〉;〝直線とはこういうものです〟って基準になるものなんだって。そんな便利なものがあるなら知りたかったよ。
初耳ね。ストレート……?なんで建築用の道具が彼岸に
さあ。彼岸の果は時の流れが緩やかって言うし、保存には向いてるんじゃないの?それはあなたの方が詳しいでしょ?
一概には言えないけどね。言葉通りの冷凍的な意味で言えばその通りだけど、時空パッケージの相関においては、時間が遅滞するなら空間は拡張してしまう。その定規、デマなんじゃない?
まあデマで存在しないんならそれでも構わないよ、そうだって分かればそれで収穫だし。それに、私が欲しいのは距離の計器でなくて真直度の計器だから、まあ長さはどうでもいいんだ。
ふうん、そういうものなのね。
そういうもの、って咲夜お前、今迄いつもどうやって直してたんだよう?私が言うのもナンだが
別にそんなの、真っ直ぐ作ればちゃんと真っ直ぐになるものなんじゃないの?
あっけらかんと答える十六夜咲夜、だがそれでは〝ちゃんと〟真っ直ぐにならないからこそ、河城にとりはストレートエッジなる道具を使っているのだろうしより高精度なそれを求めているということだ;逆を返せば、つまりそういうこと、なのらしい。
本当に壊れたのは私だけの責任なのか……?
紅魔館の根本的な強度不信が顕になりそうなところだったが、それは都合よくスルーされてしまう。話は彼岸にあるという高精度のストレートエッジについてだ。
勿論距離の精度も欲しいんだけど、真直度が高いと品質の良い建築ができるってわけ。もしも実在するなら、その写しが是非に欲しい。先にそっちを手伝ってくれるなら、魔理沙の頼みも聞いてあげるよ。
よしきた。〈直線原器〉とやら、三人で拝みに行こうぜ!
は?私も入っているの?
現場監督なんだろ?
そうなるのね、とゲンナリ顔で肩を落とす十六夜咲夜。だがふと何かに気付いたように声を上げる。
ところで……彼岸って、人間が生身で行って生きて帰ってこれるのだっけ?
そいつはいいところに目をつけたね;そういうことならカロンの渡し舟、あたいがバッチリ適任ってもんだ、任せてくんな
勘違いしないでくれよ、私達を冥土に送ってくれって死神業務を依頼してるんじゃないんだ
十六夜咲夜の懸念をうけてやって来たるは、年がら年中騒々しいほどに未成仏霊が漂う三途の川辺;旬も外れもなく年がら年中騒々しいほどに彼岸花が咲き乱れている。今だって霧雨魔理沙が当てすっぽうに「おういサボり魔の死神やい」と放り投げた声を拾い上げた小野塚小町は、燃えるように赤々とした群れを掻き分けて浮き上がるみたいに姿を表した;本当にサボって寝っ転がっていたところらしい。彼岸広しといえど、ただの人間(とその成れ果てである河童)にあるツテなど、彼女くらいのものである。
わかってらい。アレだろ、原器を見たいんだろ?
話が早いのは結構だが、早すぎて逆に怪しくなっちまうぜ。心当たりがあるのか?
勿論さ、いや久しぶりだよ、あんなものが見たいなんてもの好きはさ
霧雨魔理沙は結局のところ、〈直線原器〉の有用さをあまり理解していなかった:十六夜咲夜も同様に。主に小野塚小町へ話を通したのは河城にとりであって、その際には〝えんじにあ〟としての熱意も十分にこもっていた……ことが小野塚小町へ通じたからか、そもそもそんな事どうでも良かったのかともかく、彼岸を庭にサボりまわっている船頭を先導に得られたのは相当の近道となるだろう;彼女の能力的にも。
本当にあるんだ、驚いたな。そんな物があるなら、色々捗るってもんだね。なんせ今は計算上の真直度が現物を見てみるとどうにも合わないんだから。そうなっちゃあモノが間違ってんのか、計算が間違ってんのか、ものさしが間違ってんのか、もうわかったもんじゃない。でも、基準があるってなら、頼もしいことこの上ないよ。
河城にとりの嬉しそうなことと言ったらない;いちいち足取りがスキップにでもなりそうなくらいだったが、その一言に疑問を感じたのは一番話が通じなさそうな霧雨魔理沙だった。
計算上合わない?
ああ。最近人の里の一部では話題じゃないか。この大地は平たい皿なんかじゃなくて、卵みたいな形をしてるんだってさ。その関係なんじゃないかと思うんだけど
難しいことは私にはよくわからないけど、その〈直線原器〉ってののコピーが取れれば、もうちょっと壊れづらい図書館が作れるんだろ?
別に爆発耐性が上がるとは限らないけど……
この三途の河畔が、霊界や彼岸の果と同時に地獄にも隣接しているのであれば、こうも赤赤鮮やいだ彼岸花の群は地獄の業火のイミテーションにも見えてくる。原器見たさに態々彼岸までやって来るなんて酔狂なことだよ:小野塚小町は呆れとも感心とも取れる微妙な表情を浮かべて、言う。
なんで〝直線の基準〟のブツが、彼岸の果なんかにあるんだ?閻魔様が管理してるもんなのか?
あたいが管理してるからさ
ああ、そうかい……って、はあ?なんで一介の死神がそんなもん管理してるんだよ?
仕事だからね、好きも嫌いもないよ。閻魔が管理してるっていうのは、大まかに言えばそのとおりさ;あたいの上長が閻魔ってだけだけど
循環論法になってるわよ。
違いない、だけど、そういうもんなのさ
そんなのどうでもいいよ。これからはその基準は幻想郷のためにより広く活用される。今までなんで使われてこなかったの?
一応は宝物だからね。でも、あんなものがなくったって、幻想郷の〝真っ直ぐ〟はそれなりに運用されてるじゃないか。
だってさ。褒められてるぜ、咲夜
私がってわけじゃないでしょう、みんなそうしてるわ;いつからそうだったのかわからないけどね
〝真っ直ぐ〟って最初は誰がどうやって決めたんだ?
〝真っ直ぐ〟よりも距離の方が先でしょう。その二点の最短経路こそが〝真っ直ぐ〟よ……ああ、だからあなたが?
まあそうかも知れないけど、ただの仕事だからなあ
いつも通り魂を刈り取るのに使うわけでも無い大仰な大鎌の柄を横に倒して肩に乗せ手を引っ掛ける姿勢で歩く小野塚小町、その能力故に死神の本業は他の死神達の数十分の一の時間で終わってしまうのだ、サボるのだって無理もない;その副業に、宝物の管理もさせられているということらしい。〈直線原器〉を見に来た人界からの客人を先導して歩くのにも乗客を意識した程度にはその力を使用していることがガイドされる三人にもわかった、大凡徒歩とは思えない速度で空間遷移している;どうやらこれは、限定的なワープ航法のようだった。
二点間の距離ってのは究極的には0なんだよ;時間さえ考慮しなければ、総ての空間的な座標なんてものはただの一点にあるのと変わらない
そんなの感覚っていうか、結果の話じゃんか。速く動けて一瞬で着くなら、実際に近くにあるってことになる
そういうことさ。そこのお嬢さんだって解ってるだろう
そういうこと、なもんかよ。こいつだって解ってやってるわけじゃないぜ
ただの特異体質だし、理解しているかといえば……
それで、十分じゃないか;理解なんか、するもんじゃあない。さあ、乗換駅だ
小野塚小町はそう言って、ワープ航法を停止する;安全運転は万全で、その加減速で三人が苦痛を訴えたり違和感を覚えたりということはない。あくまでも、自分を取り巻く事象としては。それは死神が言った通り、十六夜咲夜にとっては他の二人よりもより日常的な感覚だった。
乗換駅、ったって、ここは……
彼岸と呼ばれるとても「岸」とは思えぬ広大な空間を渡る歩みを停止しいざ今いる場所を見渡して開口第一声、霧雨魔理沙は事態をどう扱っていいものか皆目見当もつかないという戸惑いにも似た言葉を口にする、何せそこには何も無かったからだ;あるのはただぽつねんと佇む、錆びついた鉄製の看板だけだった。看板には、左右に開いた矢印に、読めるものも読めないほど腐食し剥がれた文字が、ぶら下がっている。
↑新地獄
↓旧獄(地獄)
意味あんのかこの看板
旧獄に行ってもしょうがないだろう、これから飲み潰れに行こうってなら止めないけどさ
そうじゃなくて。どう見ても道なんて無いんだけど……本当にあっちに行くと地獄でこっちに行くと旧獄なのか?
看板を境に左右に道が続いているわけではないし、文字通りの「駅」もない;ただただ広がる荒野のど真ん中に、何一つ文脈なくその看板は佇んでいる。矢印の方向をそれぞれ見渡しても、地獄にせよ新地獄にせよ、その姿を望むことは出来なかった。
実際には方向なんて関係ないのさ、ここを通過することに意味があるんだ;ここは、この先が地獄になるのか旧獄になるのか、将亦そのどちらでもなく彼岸として続くのかの、事象のチェックポイントだからね。あたいの能力を使ったとしてもここでは一旦降りてスイッチしなきゃいけないのさ
パワー全開で使ってくれてもいいんだぜ、そろそろ脚の関節が無くなりそうだ
お客人を載せてそんな乱暴な運転はできないよ;なにかにぶつかったとしても、齧ってたパンを落とすくらいじゃ済まない
どうなるんだよ
どうもならないよ、ただ〝こう〟でも〝ああ〟でもない時空に放り出されて、無限分の一の存在に薄切りにされる
よくわかんないけど……丁度、死神に生者としてエスコートされるのも悪くないって思えてきたところなんだ
それがいいさ
一応は宝物扱いなんだ、それなりに厳重に管理してるから、もう少し足労願うよ
是非曲直庁内の閻魔殿、更にその地下にある宝物庫に連れられてきた三名は小野塚小町が求める通り、髪の毛を一本提出する;宝物庫へのゲスト入場手続きをするのに必要なのだとか。管理者権限を発効し三名の入場申請を通した小野塚小町に導かれるまま宝物庫を進む三名、霧雨魔理沙は周囲を見渡し収容されている宝物を流し見る。
博麗神社にも宝物殿があり、その中には歴史的に価値の高いもの霊的に外に出すと影響が多いものだけではなく、今日となっては価値の在処が分からず「宝物……?」という代物も多く収容されている;この閻魔殿の宝物庫も恐らくは地獄がまだ一つだった頃からの歴史を含んだ上で、そうしたモノも沢山あるのだろう。一つ一つ説明でも聞かなければ「それが何故宝物なのか」など解らないだろうモノが、ずらりと顔を並べている:あるいは棚の抽斗に大人しく収まり名札を掲げていた。
こうした宝物庫は紅魔館にもあり、やはりそれぞれの歴史と価値観に応じた品物が収容されている;十六夜咲夜にとってはこうした施設自体は慣れたものだがやはり並んでいるものの意味の多くは分からない。彼女が余所の宝物庫を見る機会自体は多くはないが、実際に見比べてみると(やっぱり紅魔館ってあんまり趣味が良くないわよね)という感想が禁じ得ないらしかった:口には出さなかったが。
そして一番はしゃいでいるのがやはり河城にとりである。ここが宝物庫であるということを忘れ、体も飛び跳ねんばかりに期待に胸を弾ませている。
なあなあ、写し、作らせてくれるんだよね?
構わないよ、むしろ是非そうして欲しい
話がわかる〜!
閻魔殿の宝物庫は地下方向に掘り作られていて、奥に進むというよりは下に降りていくという方が感覚的に近い。少しだけ水平方向に歩き収容されている宝物を横目にしながら、それ全体が巨大な階段みたいに踊り場を挟んでくるくる回りながら地下へ降りていく(是非曲直庁の各施設建屋自体、既に地下にあるのだが)。
そうしてずんずん下へ下へと降りていくに従って、空気というか雰囲気がぴりぴりした緊張感を伴うようになってくる。それは宝物が沢山並んでるからという緊張感ではない。きっと、この地下空間は旧獄との界堺に近付いているのだと、霧雨魔理沙は理解した。旧獄は、今でも邪悪な崇高さを湛えた悪意の海であることに変わりがない。彼女でなくともそうした雰囲気の変化は、肌で感じることが出来たに違いなかった。
そうして更に下ることをもう随分と繰り返した;底から照射されるように湧き上がる邪悪な放射は一層に強い。だがここで、無限に続くかと思われた踊り場付きの階段螺旋構造がピタリと止まる;蜷局を巻いた蛇の、尾だけがその構造に含まれていないかのように、少しだけ長く続いた横方向への廊下を歩いていく。そうして奥まった場所は通路も細まり、照明も薄ら暗く、ここがいよいよ最果ての外れであることを物語っていた。
随分歩かせちまったけど、お待たせしたね;ここだよ
ああ、ようやくかい、流石に疲れたぜ
お目当ての〈原器〉は、こん中に入ってる。
小野塚小町は、閻魔殿の地下、旧獄との界堺に危うく接しようというヒリついた空気が底冷えのように澱んだ宝物庫の最下層にて、ようやくそれを三人に示す。どうやらこの匣の中に収容されているらしい。それを目の前にした三人の表情からは先程までの期待に満ちた明るさはすっかり失われ、言い様も例え様もない匂うような不安感に包まれていた。
側面を黒漆で塗り込められた匣は、装飾を施された金色の角金具でラインを強調されていた;猫のそれのように先端が丸まった脚が三本立っているが、その脚をしかしよく見ると、茸の傘を返したような円形の凹部をずらりと並べた気味の悪い面を備えていて先端の丸まる様は蚯蚓の頭のようである;匣の本体はその上に乗った三角柱であった。そのうち二面が、三角柱の縦一辺をあわせとして観音開きになるらしい、その合わせは隙間がまったく判らず不気味なくらいに美しく噛み合っていた。三角柱の頭には無数の金線が無数に球面を無規則に走り回り絡み合う奇妙だが美麗な装飾品が添えられている。走り回った金線の内幾筋かは球の赤道あたりから球状を飛び出して放物線を描くように三角柱の外側に跳ねていた。一体、どんな錯視を利用しているのかは分からないが、その金線は確かに固定された金属製の装飾品であるはずなのに、ゆらゆらと揺らめいて……いやまるで生き物の血管のように脈打って見えた。そうして見直してみれば、黒漆で塗り込められた表面は、まるでまだ漆が乾ききっておらずぬらぬらと湿っていてまるでその濡れた表面は呼吸を伴うようにゆっくりと垂れ流れていくのを感じられてしまう。実際に目を凝らせばそんなことはない、だが金線の結ぶ球面の根本から滔々と湧き出す黒い液体が僅かに波打ち続けているような錯覚を誘った。そう見えるのにそうではない;傍に居て気分の良いものではない。
何か、凄い容れ物に入ってんだな。神々しいっていうか……
その匣の有り様を見た霧雨魔理沙が相当に言葉を選んだだろう事は、他の三人にもありありと伝わっていた;その感覚は共通していたからだ。神々しいという言葉こそ使ったが、三人の胸中に収められた正直な言葉はこうである:忌々しい。三人ともこれを目にするのは初めてで、当然このこの匣にも、中に収められた原器にも、何の思い出もない;だというのに、まるで過去にそのせいで思い出したくもない暗い過去を植え付けられているような忌避感が湧き上がっていた。
長いこと地獄に晒されてるからかな……何ていうか、保管場所を変えたほうがいいかもしれないぜ
そうだねえ、本当はもっと色んな人に見てもらいたいってのもあるし、考えてみるさ
三人が得も言われぬ不安感と嫌悪感に巻かれている。それに全く気付かない、本人にもそんな感覚は全くなさそうな様子で、小野塚小町が「色んな人に見せる」とサラリと口にしたことに対して、三人は理由もなく恐ろしい計画を耳にしたような怒りにも近い後ろめたさを感じてしまう;全く、理由もない:なぜそう感じるのか、分からない:正体が、分からない。
ただの正確なストレートエッジってだけなのに、なんで……
ことここに至って「やっぱ見せてもらえなくていいです」等と引き返す事も出来ない、腐臭が漂う空間に立ち入り、剰え腐敗した死体に近付かなくてはならないような強烈な忌避感は拭い去れないのに、それを押して収容された宝物を見なくてはならない。つい先程までの期待感とは裏腹の不快感を無理矢理に無視して、原器を拝まねばならない。
さ、開けるよ。とくとご覧あれ。
小野塚小町は〈直線原器〉の収容器を、開いた。
これが〈直線原器〉、なの?
う……っ、ぐ
直線を表す忠実で正確な現実物体であるはずの直線原器は大凡〝真っ直ぐ〟とは言い難い姿をしていた、線の原器であるにせよ三次元空間に存在している以上はXYZ軸にも量を持つもので当然のように帯状の立体を想像していた彼等はしかし、想像だにしない到底形容する言葉の見当たらぬ形状のそれを目の当たりにすることになった。
そん、な
これ、直線なんて形じゃ……
複雑に入り組んだ辺同士は到底等間隔に走っているようには見えない、恐らくは最もライフラインの長い継続が〝直線〟を示す原器の姿であり他のそれよりは幾許か短い見ようによっては少々長い連続は〝直線〟を有限の三次元空間の認識に押し留めておくための制約でしかないだろうことは察することが出来ただが、せめて大まかにでも一方向へ伸びていてくれたならこの形状を認識した彼等にもまだ、事態を否定する理性が必死に平仄を合わせるための口実を作り出す余地があったかもしれない;だがそうではなかった。
あちらに走った〈直線原器〉の辺線分は今度はこちらにそして更に別方向へと走行を続け不意に巻き戻り蜷局を描いて震えていた、それは止まり:伸び:回転して伸展している。線が線であることを無視していた、直線が直進することを放棄していた、曲がりくねり:広がりを持ち:断続している、それは原器収容庫に置かれているだけにも拘らず静止しているようには見えなかった;歌うように踊り狂い、騒々しく奏で立て、グロテスクに震え脈打ちながらそこに横たわっている。
こんなものが直線であるものか;そこにいる全員がその感想において一致していた。
目の当たりにしているそれが〝直線である〟と自らに言い聞かせようとするほどに吐き気を催す程の拒否感が湧き上がる、だというのに同時に誘蛾灯の如き甘美さで視線を捕らまえてくる。
う……えぇっ……おっ
それを一瞥したときから口元をおさえていた河城にとりが、いよいよ堪えきれずに嘔吐した。開かれた扉から毒ガスが溢れ出したわけでも、実際の異臭が漂ったわけでもない;ただ、それを目にして湧き上がる尋常ではない嫌悪感がそうさせた。それも河城にとり一人がそうだったわけではない、嘔吐こそしなかったものの霧雨魔理沙も、十六夜咲夜も、収容器から解き放たれ眼前に現れたそれを認識しただけで、すぐにでもそれを破壊しなければならないという使命感にも似た鮮烈な敵愾心がむらむらと立ち上るのを感じていた。
これ、だめだ、こんなモノが〈直線〉だなんて。おえっ
違う、違うわよ、こんなの……!
冷や汗を滝のように滴らせ目を血走らせて、頭を掻き毟りながら狂乱する;十六夜咲夜は恐怖に打倒され絶望した。おかしい、ありえない、そんなのみとめられない、譫言のように口の端から漏らしながら、そこかしらの空間に沈み潜む何者かが襲い来るのを恐れるように、瞬き一つとて拒否し血走った目で、忙しなく周囲を見回し続けている。
あんたらも、ダメだったか
小野塚小町は〝それ〟を目にした三人がまるで陰惨な現場そのものでもあるかのように目を逸らしてそう言った;しかし何か恐ろしいものを目の当たりにしたように戦慄し:狼狽し:憔悴し:悶絶し:全く正常さを失った三人のその事態を、実は当初から予想していたのではないかと思わせるほどに、その表情には後ろ暗い感情が張り付いている。
あ、あなたは、これが〝真っ直ぐな線〟に見えるんですか?!
見えるともよ;美しく整った〝真っ直ぐな線〟じゃないか。あたいはどうやらこれを見ても今のあんた等みたいにはならないタチらしくてね、だからこんな仕事も任されてるってわけ。なに、見てるだけ:置いておくだけ:守るだけ:楽な仕事さ、人の命を刈り取ってくる業務に比べれば不労に近いでも、給金はべらぼうに高い。それに比べれば死神の仕事なんて非効率だ、適度に手を抜くに限るよ。ただ……私にも、仲間が、欲しいんだよ、こんなふうな世界の本当の姿を、一緒に見ていられる、さ
わかるだろう?引き攣った表情で三人を見回す小野塚小町。〈直線原器〉を匣から取り上げ三人の顔の前に順に近付けた。
ひ……ひぁ……やだ、やだよお……
や、やめて、くれ、そんなものを、見せないでくれ
そんなものとは心外だねえ。これは、〈直線原器〉だよ?あたいらがこの世界の整った姿を認識していられる、そのための基準。これがあるから、世界は〝まっとう〟でいられるんだ。
ちがう!!
突然叫び声を上げたのは、十六夜咲夜だった。肩で息をしているが、引きつけを起こしたように浅い;苦しげに胸の辺りを押えて呼吸に苦労しながら、懇願するように泣いている。
こんなものが〝直線〟だなんて……違う、絶対に違うわ!!だったら、だったら今まで私達は……私達……!?あり得ない、認められない、こんなの、こんなのって……
残念だね、お嬢さんは、適性がありそうだったのに
……咲夜に、適性?
適性とはどういうことだろう、と霧雨魔理沙は、十六夜咲夜の方を見やる。彼女は、髪を乱すように頭を振り、何かを否定しようとしながら何事かぶつぶつと呟いている。
み、水を注いだグラスに数滴のインクを落として出来上がる、時間と共に刻一刻と変化する水とインクの複雑な界面;私達の世界は、その界面に張り付いているのよ。天の沼矛の伝説はその比喩。だから、でも、だからってこんなものが、直線……
私達はインクのモヤの中に住んでるってのか
違うわ。その界面によ。それに、その面には経時的変化が内包されている。一定じゃないし、一直線でも平たくもない。止まっていないし、濃度も変わる。だから、だからこんな!
だから何だってんだよ、だからって、そのせいで、私も、お前も……すべてが―!
そうよ、何も正しくなかったのよ!わかるでしょう、ほら、何も、私達は、何もかも間違ってた!!
ぼろぼろと涙を流しながら、十六夜咲夜は「この世界すべてが喜劇の舞台上だ」と示すように腕を広げて、周囲すべてを見回すように促す;そんな事を示されなくともしかし、霧雨魔理沙も河城にとりも、見渡すすべてが破綻した線で出来上がった歪な、語るに悍ましく戦慄を禁じ得ないグロテスクな姿に変容し終えてしまっているのを、認識していた。これは、直観だ;そして理性は受信するが、悟性はその解釈を諦めている。
この世界が平たい大地ではなくて、中心を持った球体だなんて嘯いた奴もいたが、そんなのはどっちだっていいんだ。どっちも間違ってんだから。当たり前さ。直線なんてものはこことこここの二点を通る非現実の数式の呼び名でしかない。そしてこの世界にはまともな線も、まともな線から出来上がるまともな面も、まともな面が組み上げるまともな立体も、存在していない。時空の連続性なんて、数式上の幻想なのさ。そもそもこの世界も―
やめて!!
泣き叫び狂乱したのち、灯火が燃え尽きるように声が細って十六夜咲夜はがたがたと震えながら膝を抱えて座り込み、もう何も見たくないという風に顔をその膝に埋めて小さく丸まった。そして、動かなくなり―
さ、咲夜?
突然姿が消えた;まるでいつも彼女が時間停止で瞬間移動をするときのように。だが彼女の姿は一向に現れない。どこかに逃げてしまったのか、と思ったが。
小野塚小町は、姿が残っている二人に向かってまるで罪を懺悔するようにさめざめと涙さえ湛えながら言う。
あんたらが〈直線原器〉を見たいと訪ねてきたとき、掛け値なしに嬉しかったんだ;仲間が、出来るかもしれないってね。でも同時に、はっきり言って、望みがあると思ったのは、さっきのお嬢さんだけだ。あんたら二人は、申し訳ないけど、最初からそうなると思っていたよ。でも、彼女もダメだった;受け容れられずに、特異点を濫用しちまったみたいだね。
どういう、ことだよ、咲夜をどこにやったんだ!
どこにも
逃げちまったのか、こんな―
逃げた、それはある意味で正しいでも、あんたが思っている意味ではないな。彼女は本当に消えてしまった。もうこの世のどこを探しても、永劫の時間が流れても、もう現れないだろうさ
ふ、ふざけるな!
ふざけてなんかいない。自分自身に対して真の意味での時間停止を行使したせいで、彼女という事象は特異点に落ち込んだ。彼女の存在は汎ゆる事象に対して同時性を失った;遅延でも先行でもなく、断絶だ。時空の振る舞いが正常ではなくなって、彼女は接点を失ったんだ。そんな事を出来る特異体質というのは驚異的なことではあるけれど、こういうことでもある。彼女は自分の力を理解していないと言っていたが、自分自身を真に停止させるなんてことは、今までは無意識に避けてきただろう。
意味が、わかんないぜ
簡単なことだよ;彼女は、自分自身を消滅させたんだ。逃げたい、一心でね。
それがある種の自殺であると仄めかす小野塚小町に、霧雨魔理沙は「死神め」と悪態をつく。だが、それが的外れであり、自らの存在を現実から切り離すほどの強烈な逃避を求めてしまった十六夜咲夜の気分を理解できそうになっていることもまた、認めなければならなかった。
……にとり、お前は、大丈夫か?
藁にでも縋る気分で、今度は河城にとりの方を見る。どうか何も変わりなく平然としていてくれ、それは最早ただの祈りに過ぎないと自覚していた。河城にとりへ恐る恐る視線を向けると、膝を抱えて丸くなり萎縮していた十六夜咲夜の姿とは違っていた。
そっか、本当は、こうだったんだ、だから、計算が合わなかったんだ!簡単なことだったんだ。
底抜けに明るい声で笑う河城にとり。いつの間にどうやって持ち込んだのか、ニンゲンの里で護岸工事をやっていたときの器械が起動の唸りを上げている。
よかった、お前は平気なんだな!
平気っていうか、だって、これが正しいんでしょ?実際のカタチって、本当の空間って、こんなふうになってて……あれ?あはは。ねえ、これおかしくない?私達、なんで、正しい?曲がりくねってる。真っ直ぐはどこにあるの?直線を探しに来たはずなのに、全部デタラメで……でもこれが本当ってことだから、だから、ふっ、ははっ!わかった、わかっちゃった!!
にと、り?
平気では、ない;霧雨魔理沙は僅かな望みの一つを、もう一つ失った。
わかった、と満面に笑みを貼り付けてはいたが、目だけが笑っていない。瞳にはまるで冬の凍てついた夜のような闇が巣食っていた;光はなく、生気の抜けた、それは歪んだ世界をしっかりと映しているに違いなかった。
〈直線原器〉への嫌悪感、敵愾心、不快感と忌避。河城にとりが鉄の作業器械を立ち上げたのはきっとそれを破壊するためだと望んだ霧雨魔理沙はしかし、次の瞬間その希望を打ち砕かれる。
やだなあ、私、こんな形してるの、おかしいじゃんか。
にとり、やめ―!
おかしいでしょ、こんなの。みとめられないよ。
作業器械の油圧アクチュエータが唸りを上げ、その強靭な力が込められたマニュピレータに挟まれていたのは、河城にとり自身の身体だった。
なおさないと
それが彼の最期の声だった、以降聞こえたのは音である;柔らかい肉質を剥ぎ取り硬質のカルシウム塊を折り曲げて、液体が撒き散らされ流れる音:そしてその修復を淡々と進める器械の駆動音。しばらくの間、ただただその濡れた音と砕ける音と、地鳴りのような機械音だけが、空間に響いていた。
霧雨魔理沙は、眼の前で続けられている修復を呆然と眺めているしか出来ない。小野塚小町はというと、心ここにあらずといった様子で、〈直線原器〉を舐めるように見回していた。
やがて、濡れ滴る音がやみそこに霧雨魔理沙が見たのは、霧雨魔理沙が知っている通り元の形になった河城にとりの姿。だが、もう動かない。
どう、して
なおさないと、と言ったのは、こういうことだったのか。出来上がった河城にとりの姿は、霧雨魔理沙の認識の上では、形こそ元の通りになっている。
だが、他のものは、そうではない。
河城にとりの逃避が終わったのを見計らって、小野塚小町は口を開いた。
大丈夫かい。ああ、ちょっとばかり見え方が違うくらいさ。あれを目にする前に見ていた世界は、もう見えないかもしれないけど……真っすぐ歩けないくらいで、死んだりはしないから
小野塚小町の言葉の意味を霧雨魔理沙は既に理解している、今まさに自分の目の前に広がる光景によってその意味をありありと体感していた。
小野塚小町は、意外にも最後まで残ったのは霧雨魔理沙だということに少々の驚きこそ見せたが、どうせ大差はなかろうと諦めているようにも見える。霧雨魔理沙自身にだってもう、これ以上長らえる自信は持てていなかった。
まあ、どうしてもっていうのなら、迎えに行ってやったっていいよ。それも、仕事だからさ
荒い息遣いを御し切れない、動悸が収まることがないのは恐怖が精神を締め上げ脳を鞭打ち続けているからだ。肺は萎縮し横隔膜は石化しようとしている:瞼を下ろすことが恐ろしくて堪らない、奴等は私が視界を閉じ世界認識が寸断するのを虎視眈々と待ち構えているのだ;その時こそ私がこの世界から切除される瞬間なのだと理解してしまっていたからだ:眠りを得ようなどは、以ての外だった。
意識と世界を蜘蛛糸一本で繋ぎ止めているとはいえこの瞳に映る世界は最早、まともな姿をしていなかった。
大地は足元から頭上へ折り畳まれ、木々はもんどり打って捻れ伸びている:太陽は平たく、星は柱となっていた:一歩踏み出し歩いたつもりが突然落下し、元の場所から幾らか高い場所に逆立ちさせられた。光は蛇行し、その間を埋める影とダンスを踊って禍々しいレースを縫い上げていた。
安息の空間だった自宅でさえそうだ;家の手前と奥が入れ替わっていた:扉を引き開けると、まるで消え入るように縮小したり巨大に膨れ上がった:部屋に踏み入れたつもりが、波打つ床に伏臥していた。目に見えるもの総てが歪み、しかも視覚だけではない;手に触れても確かに曲りくねっていたり、巨大だったり豆粒サイズだったり、裏返って外側から中身に触れられてしまう。
紅魔館でのことを聞いた友人が「またやらかしたのね」と笑いながら訪ねてきたが、その姿はまるで人ではなかった。彼女一人以外の体のパーツも付属している。ぐちゃぐちゃに錯綜した体の輪郭は当たり前のようにあちこちで裏返って骨や内臓を露出させており、右腕は短く左腕は蚯蚓のように波打って引き摺るほど長い。顔面に巨大な穴が空いており、鼻先が陥孔して後頭部の向こう側に突き出て、眼孔が頭上で捲れて扁平になった眼球が浮いていた。脚は滅茶苦茶に絡み合っているのに、何故かするすると歩く。奈落の底を突き破ったような床にさえ自然に足が着地し、次の一歩で元の高さの地面に舞い戻ってくる。その足は一歩ごとに向きを変えて捻れていく。だというのに本人は全くいつも通りの声で、確かに目の前の化け物が親しい友人であることを物語っていた。
れいむ……わたし……だめだ
変わり果てた(ように見える)友人の姿に、耐え切れずに嘔吐してしまう。吐瀉物は私の背中にかかっていた。
ちょっと。様子が変だっていうから心配して見に来てあげたのに、いきなり吐くなんて失礼ね。……ほんとに大丈夫?
心配そうな声で私の方に置かれた手の指は長さがバラバラで二本は捻れて上を向いていた。手の甲から掌が突き出ている。
姿形が異様な変形を見せていたのは周囲の風景や霊夢の姿だけではなかった、一緒に行動していた咲夜もそうだったしにとりもそうだ。それに鏡に写った自分の姿も、最早人間とは呼べないものに成り果てていたのだ。〈あれ〉を目にした瞬間から、私の目はおかしくなっていた。咲夜も、にとりも、その瞬間からもう、こんなふうだった。私が今も何とか生き長らえているのは、咲夜やにとりと違って私はそれを理解できる頭を持っていなかったからに違いなかった。
れいむ、たすけて、くれ
わかったわ。医者がいいかしら。永琳先生のところに連れて行くわよ
ちがう
違うって、何?他に何か
ちがうんだ、れいむ。そうじゃなくて
きっとこれは劫罰なのだ、不佞の人間如きが不遜にもこの世の真の姿に見えてしまったことへの。基これが本来の姿を私の悟性が解釈している像だとするのならばこれは:そう、救済なのだ。蓋し、こうした必死の抵抗は不要なのであろうか;スイッチに指を掛けほんのひといきついと私自身を再起動すれば次の私の眼前には。
だがいざ誤作動が顕となった意識を手放そうと瞼を落としてみてもどうにも眠りにつけぬ、あれから一時でさえ早足を已めぬこの心臓と、浅過ぎるのか深過ぎるのかも判らぬ荒くれ放題の呼吸が、螺旋を描いて猜疑に満ちた弁証法を回し続けて野放図に振る舞う脳が、私を妨害してくるのだ。
よしてくれ。はなしてくれ。わたしはもう、おえたいのだ。この欺瞞の世界を。間違っていたのだ、誤っていたのだ、勘違いも甚だしい。錯覚を信じ込んだ私自身を。
どうにかこれを捨て去る方法はないものか;安寧なる再起動、眠りの淵にこれを投げ捨て、暁に真なる姿を〝真っ直ぐに〟見る方法は。
辛いの?どうしよ、一旦横になる?
れいむ。わたしを
ああ、そうだ、もうこれしかない;方法は、もう―
わたしを、ころしてくれ
あるいは今なら。あの〈直線原器〉が、〝真っ直ぐ〟に見えるのかもしれない。